Krishnamurti 生・美・芸術・創造    Ver 1.21





快楽とは、記憶の保持存続、それの再現、それの反復への欲求です。
それらが快楽を育て維持します。
私たちが「愛」と呼ぶもの―それは嫉妬、不安、さびしさ、恐怖に囲まれています。
あるいは「美」もまた、私たちにとっては快楽です。
それらはたいてい刺激の結果です。

美しい女性、美しい夕日―私たちはそれらを美しいと呼びます、
なぜなら、それらは刺激物として働くからです。
では、快楽に関係のない、刺激の結果ではない美があるでしょうか。

私たちの生に愛はありません。
私たちは人生に退屈し、創造的であるとはどういう状態なのか知りません。
私たちは皆、それぞれのやり方で自己表現を望みます、「表現者」でありたがります。
そしてこの「表現すること」が、一般に創造性と呼ばれます。
しかし、恐怖、快楽、時間―それらがあるとき、どうして創造性があるでしょうか。

確かに、「創造」は私が知っている何かの継続・存続ではなく、
「終わること」を意味しています。
何か新しいものがあるのは完全な終わりがあるときのみです。
しかし、私たちは終わることを恐れています。
あらゆる快楽、記憶、経験、願望に対して死ぬことを恐れています。
それゆえ私たちは継続し、決して終わることがありません、創造的でもあれません。

美、愛、死、創造は、みな相伴うように私には思われます。
しかし、どんな形であれ恐怖が存在するとき、それらは花開けません。
あなたと私は、この時間と快楽の構造から完全に外に出ることができるでしょうか。
思考なしに、感情なしに、恐怖を沈黙のなかから注意深く見ること、
原因を探したり、分析したり、除去したりしなければならない何かとしてではなく、
それを眺めることができるでしょうか。

目の前の花を、
イメージや知識、言葉や感情の介在なしに観察するのは、比較的簡単なことです。
なぜなら花は、私の人生のなかで特に重要なものではないし、深刻な問題でもないからです。
しかし、その観察の対象が私たち自身の心理的問題となったとき、
それは非常に困難なこととなります。

私たちは、経験、記憶、知識としての「中心」からすべてを見ています。
決して直接には見ようとしません。
「私」という空間を通して「外」を見ているのです。
その中心がないときにのみ、花をそのものとして観察することができ、
それと同じように自分自身をも注意深く観察することができるのですが、
しかし「私」はその性質上、過去―時間を背負った存在であり、
経験の記憶であるその中心なしには、決して観察できないのです。

私は中心なしに―つまり、思考やイメージなしに―
花や雲、飛んでいる鳥を注意深く見ることができます。
では、その同じ注意力を使って、あらゆる私の心理的問題を―恐怖の問題、快楽の問題を―
言葉なしに、注意深く見ることができないでしょうか。
なぜなら思考が全てを歪めているからです。

このことは本当に、まったく驚くほど単純です。
私が花を、言葉なく注意深く見ることができるなら、
私の持っている心理的問題をも、
その同じ「思考でない注意力」でもって見ることができるのです。
私は沈黙から―この活動し続ける思考機械なしに―注意深く見ることができます。
ただ注視していることが。

私はそれが問題すべての核心だと思います。
周辺から接近するのではなく、
日課、セックス、死、悲しみ、孤独といった複雑な問題を含んだ日常生活のすべてを
注意深く見ていること、
思考や連想なしに、沈黙のなかから、そのすべてを注意深く見ていることが。

それは「中心」がないことを意味し、
思考の反応を作り出す言葉―記憶、時間―がないことを意味します。

私はそれが本当の問題点だと思います。
心が生を注意深く見ることができ、まったく葛藤を除去することができるかどうかが。
そこには観念とその後の行為ではなく、即時の行為のみがあるのです。



洗練とは何か。
それは自分の周りのあらゆるものに対し、
また自分自身の内なる思考、信念、感情に対し、鋭敏であることだ。
洗練は、あなたの衣服、物腰、身ぶり、歩き方、話し方、人を見る眼差しに反映される。
そのような洗練が不可欠なのではないだろうか。
なぜなら、洗練なしには退歩が起きるからだ。



感受性なくして愛情はあり得ない。
個人的な反応は感受性を意味しない。
あなたは、あなたの家族、あなたの達成、
あなたの地位や能力などについては敏感であるかも知れない。
しかし、この種の感受性は制限された狭い反応であり、堕落している。

感受性とは良き趣味ではない。
と云うのも、良き趣味とは個人的なものであり、
個人的な反応からの自由こそが美の自覚なのだからである。
美の鋭敏な自覚なくして愛は存在しない。

自然、川、空、人々、不潔な道などへの鋭敏な自覚が愛情なのだ。
愛情の本質は感受性である。
だが、ほとんどの人は鋭敏であることを恐れている。
彼らにとって鋭敏であることは傷つくことであり、
したがって彼らは自己を硬化させ、自己の悲しみを表に出そうとはしない。

あるいは彼らは、あらゆる形態の娯楽、集会、ゴシップ、
映画や社会改革のなかへと逃避する。
だが鋭敏であることは個人的な事柄ではない。
もしそれが個人的なものであるなら、それは悲惨へと導く。

この個人的反応を断ち切る方法は愛することである。
そして、この愛は、一者のためであると同時に多者のものでもある。
それは一者に対してであるか多者に対してであるかに限定されない。

鋭敏であるには、全ての感覚が十分に生き生きと活動していなければならない。
そして、感覚の奴隷になるのを恐れることは、あるがままの事実からの回避でしかない。
事実の自覚は奴隷であることへとは導かない。
事実を恐れることが束縛を導くのである。
思考は感覚から成り立っているし、思考は制限を作り出すのに寄与している。
しかし、それでも尚、あなたは思考を尊重する。
それは尊ばれる高貴なものであり、自負心と共に大切に保存されている。

思考、感情、あなたの周りの世界、
あなたの仕事場や自然などに鋭敏に気づいていることは、
一瞬ごとに愛情のなかで爆発することである。
愛情なくしてはあらゆる行為は重く、機械的なものになり、腐敗へと導く。



芸術家とは、明らかに行為の巧みな人ではないでしょうか。
この「行為」とは生活のなかにあるものであり、その外にあるものではありません。
それゆえ、巧みに生きることが人を真の芸術家にするのです。

楽器を演奏したり、詩を書いたり、絵を描いたりするときには、
この巧みさが一日の内の数時間だけ働きます。
また、いくつかの異なる分野で仕事をしたルネッサンスの偉人たちのように
数多くの巧みさの断片を持っていれば、もう少しは長く働くでしょう。
しかし、音楽や著作に費やす僅かな時間が、
無秩序と混乱にどっぷりと浸かった生の残りの時間と衝突するかもしれません。
とすれば、このような人が芸術家と言えるでしょうか。

芸術的な手腕によってヴァイオリンを演奏しても、その眼が名声に向けられている人は、
ヴァイオリンに関心があるのではなく、ただ名声を得るために腕を磨くだけであり、
音楽よりも「私」がはるかに重要なのです。
そして、それは名声を得ようとする作家にも画家にも言えることです。
音楽家は、美しい音楽と見なすものに私を同一化させ、
宗教家は崇高と見なすものに私を同一化させます。
このような人たちは自分たちの特定の小さな領域においては巧みですが、
広大な生の残りの領域を無視しています。

ですから私たちは、行為の巧みさ、生きることの巧みさとは何かを見出し、
単に絵画や著作や技術のなかだけでなく、
生の全体を巧みさと美をもって生きるにはどうすればよいかを見出さなければなりません。

巧みさと美とは同じものでしょうか。
芸術家であってもそうでなくても、
人間は巧みさと美をもって生の全体を生きることができるでしょうか。

生きることは行為ですが、その行為が悲しみを生み出すとき、
それは巧みさを失っているのです。
それでは人間は、
どのような悲しみも摩擦も嫉妬も貪欲も葛藤もなく生きることができるでしょうか。

問題は、誰が芸術家で誰がそうでないかではなく、
あなたや私といった人間が、苦悩や歪みなしに生きることができるかどうかです。
勿論、偉大な音楽や彫刻を過小評価したり馬鹿にしたりするのは思慮のないことです。
それは自分自身の生を巧みに生きていない人間のすることです。
けれども行為の巧みさである芸術的手腕と美は、
一日のうちの数時間でなく、一日中働いているべきなのです。

これが本当の意味での挑戦であって、
ただ美しくピアノを弾けばいいというようなことではありません。
実際にピアノを弾くときには美しく弾かなければなりませんが、
それだけでは十分ではないのです。
それは広大な畑のなかのほんの少しだけを耕しているようなものです。
私たちはその全領域と関係を持っています。
そして、その全領域が生なのです。
私たちが常にやっていることは、
その全領域を無視し、自分や他人といった断片にだけ集中することです。

芸術的手腕とは、完全に目覚めていること、
それゆえ生の全体において巧みに行動することを意味します。
そして、それこそが美なのです。



原因を持たない一つのものは愛であり、それは自由です。
それが美であり、巧みさであり、芸術なのです。

愛なしに芸術は存在しません。
芸術家が素晴らしい演奏をしているとき、
私は無く、そこにあるのは愛と美であり、これが芸術です。
これが行為の巧みさなのです。

行為の巧みさとは「私」の不在です。
芸術とは「私」の不在です。
しかし、あなたが生の全領域を無視して一部分だけに集中するとき
―たとえそのとき私が全く空っぽだとしても―
あなたはまだ巧みに生きている訳ではなく、
したがってあなたは生の芸術家とは言えません。

私なしに生きることが愛と美であり、それ自体が巧みさをもたらすのです。
生の全領域を巧みに生きること―それがもっとも偉大な芸術です。



質問者:生きることに意味はあるのでしょうか。

クリシュナムルティ:なぜ意味が欲しいのでしょう(笑)。
あなたはここにいるのです。
あなたはここにいて、そして自分自身を理解していないので、生きることに意味を求めます。
いいですか。
あなたが木や雲、水の上の光を見るとき、
愛するとはどういうことなのかを知るとき、
そのとき生きることに意味など必要としないでしょう。
あなたはおり、それは在るのです。

そのとき、世間にある美術館やコンサートのすべては二次的な意味しか持たなくなるでしょう。
注意深く見る心とハートを持っているなら、美はあなたが見るべくそこにあるのです。
―対象の側にではなく、あなた自身の側に。



心は、心理的な時間を拒絶してしまったので、
途方もない秩序があり、どんな種類の動きもない地点に到達しています。
それは静かです―途方もないエネルギーを伴って。
何かをしてではなく、何かを追求してでも、変容しようしてでもなく、
途方もなく活動的です。
それには動きがありません―完全に、静かです。
動きなしで、運動なしで、エネルギーに満ち満ちています。
この静けさのなかに―完全に静かである心のなかに―爆発があります。
そして、この爆発は、時間の別の次元での動きなのです。

結局、「創造」とは何なのでしょう。
私は、絵を描いたり、文章を書いたり、偉大な発明をしたりする才能のことを
言っているのではありません。
あなたが才能を持っているなら、それを表現したくてたまりません。
私たちは、自分が非常に創造的な人間であると思いたいのですが、
そのすべては創造ではありません。
私たちは創造とは何かを知りません。

創造は、常に爆発的であるに違いない何かです。
私の心は模造品―二百万年の重みを背負ったものであり、
そのなかに新しいものは何もありません。
私が芸術家として生きているなら、
何であれ新しい表現の案出、創作活動に懸命でしょう。
しかし、内面的には新しいものは何もないのです。
心がそのことに気づかないかぎり、
それはその決まり切ったパターン、退屈、繰り返しのなかを生き続けるでしょう。

創造は非常に重要です。
そして、この創造のなかで爆発するためには、
エネルギー全てがいかなる動きも持たず、心が完全に静かでなければなりません。
それは水が沸騰しているなべに似ています。
蒸気の逃げ道がないなら鍋は爆発します。
まったく新しい何かがあり得るのは、そのときのみなのです。



エネルギーがもはや浪費されておらず、どんな運動もなしに生じているとき、
行為があるに違いありません。
沸騰している湯沸かしは、逃げ道がないなら爆発するに違いありません。
心が完全に静かであるとき、
よどんだ静けさではなく、途方もない活力とエネルギーを持った静けさがあるとき、
ある出来事、爆発があり、それが創造なのです。
本を書くこと、詩を書くこと、表現することが創造なのではありません。
自己表現は全く創造ではありません。
その創造の状態のなかにない心は死んだ心です。
瞑想を理解したいなら、まさに自己を知ることから始めなければなりません。
自己を知ることは賢明さの始まりであり、悲しみの終わり、新しい生の始まりなのです。



我々は、滔々たる生の流れのそばの小さなよどみのなかに棲み、
そこで朽ち果てて死んでゆく。
この沈滞、この腐敗を我々は「人生」と呼ぶ。
我々は文化、達成、様々な信仰、神々、恐怖と共にそのなかに立てこもり、
そこで死んでゆく。
その傍らを「生」―あの、力と美とを漲らせ、
絶え間ない運動である生が流れていくのを見過ごしながら。



美とは単に、釣合、形態、趣味、態度の問題ではない。
美とは、あの精神の状態―
単純さが持つ情熱のなかで自我の中心が放棄されてしまった状態―である。



美の記憶は生きたものだろうか。
あなたが何か美しいものを見るとき、そこには即座の喜びが起こる。
夕日を見るとき、直ちに歓喜が応え返す。
その歓喜は、数瞬後には記憶になってしまう。
その喜びの記憶は生きたものだろうか。
それとも、それは死せる刻印なのだろうか。
そして、その夕日の死んだ印象を使って、あなたはあの喜びを取り戻そうと望む。
が、記憶は喜びを持たない。
それは単に、過ぎ去ったもの、かって喜びを生んだもののイメージに過ぎない。
美への即座の応答として喜びがあるのだが、
記憶が介入し、それを壊してしまう。
もし記憶の蓄積なしに絶えず美が知覚されれば、
そのとき初めて、永続的歓喜の可能性が開かれる。



鋭敏であることは
美しいと呼ばれているものだけでなく、醜いと呼ばれているものにも気づくことである。
もし私たちが美しいものも醜いものも拒まず、共に受け入れ、そのどちらに対しても鋭敏なら、
その時にはそれらは共に満ち、そしてこの知覚は人生を豊かにする。





INDEX